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キャンピングカーで放浪の旅

 写真で探訪

日本航空機123便の、事故の日時は、1985年8月12日18時56分
24年が過ぎた。

場所は、群馬県上野村御巣鷹の尾根。    さらに広い地図は、ここ

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赤いところに、機体をぶつけます。  黄色が駐車場。

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駐車場までの道。 紅葉が奇麗だった。
きち兵衛さんだったら、なくなった人の思いが、紅く染め上げたと歌いそうだ。

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事故現場は、駐車場から800㍍。
真ん中の山の向こう。 真ん中の山より、高くなっていく。

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現場の地図。

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登山道 。 救助隊はどこを歩いたんだろうと思った。

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赤は、衝突地点。  オレンジは、4人の人が助かった斜面。 黄色はヘリポートで、今は昇魂の碑がある。

地図kk

昇魂の碑。 ここが、ヘリポートだった所。
この場所の奥、数十㍍左手の斜面上部に、飛行機は衝突する。
ドウダンツツジが真っ赤だった。 名前を覚えた、さかんに目に付く。

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上の写真に、小さく写っている。 全部読ませていただいた。
もう、1世代に近い時が流れている。

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泣きながら書いたんだろうなと思った。
最後の1行を読むのは、つらかった。 

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衝突地点の中心は、この場所の、すぐ左後ろ。  右斜め後方45度くらいの方向から飛行機は来る。

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亡くなった方の名簿。  亡くなった人520名全員が、どれだけの恐怖を感じ、痛い思いをしたのか。

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観音様の後ろの、少し高いところに、操縦士・副操縦士・機関士の碑があった。
よく、出力の調整だけで、操縦できたと思う。 これが出来ることは、それまで知られていなかった。

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この斜面に墜落した。 遺体発見場所には卒塔婆があった。 山の斜面の多くの場所に。

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ここが衝突地点。

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向こうの山の、凹んだ所に、飛行機は最初にぶつかっている。
撮影した場所の後ろが、上の写真。

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   事故現場と川上さんが助けられる様子は、ここに。(You Tube)

墜落時の様子(WikiPediaより)

クルーの努力も空しくJAL123便は降下し続け、18時56分14秒に対地接近警報装置が作動。同17秒頃、機体はわずかに上昇しだしたが、18時56分23秒、機体後部と右主翼が樹木と接触した。このとき、機首を上げるためエンジン出力を上げたことと、急降下したことで、速度は346kt(640km/h)に達していた。接触後、水切りのように一旦上昇したものの、機体は大きく機首を下げ右に傾いた。26秒、右主翼が地面をえぐり、同時に機体の破壊が始まった(垂直・水平尾翼、右主翼の脱落)。28秒には機体後部が分離。機体は機首を下げながら右側に回転してゆき、18時56分30秒、高天原山[※ 1]の斜面に前のめりに反転するような形で衝突、墜落した。18時56分28秒まで録音され続けていたボイスレコーダーには23秒と26秒頃に衝撃音が残されていた。23秒の衝撃音の直前には、機長の「もーうダメだ」とも聞き取れる叫び声も記録されていた。ボイスレコーダーに録音されていた音声は、後に活字の形で公表されたが、この叫び声は判読不能とされている。

衝撃によって、機体前部から主翼付近の構造体は原形をとどめないほどバラバラになり炎上した。後の調査によれば、機体の大部分に数百Gの衝撃が加わったとされ、両主翼も離断し炎上した。一方、28秒に分離した客室後部と尾翼は、山の稜線を超えて斜面を滑落していった。客室後部は尾根への激突を免れて、斜面に平行に近い角度で着地し、樹木をなぎ倒しながら尾根の斜面を滑落して時間をかけて減速した。このため最大の衝撃が小さく、それ以外の部位と比較して軽度の損傷にとどまり火災も発生しなかった。これらの要因によって、客室後部の座席に座っていた女性4名は奇跡的に生還できた。だが、その他の者は即死もしくはそれに近い状況であった[3]。

即死したものも多かったものの、客室後部付近を中心に墜落直後の時点ではかなりの数の乗客が生存しており、翌朝に捜索隊が到着するまでの間に次々と息を引き取ったという生存者の証言がある。


こんな所が、たくさんある。 ここから、反対の斜面。

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九ちゃんが発見された場所。

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今日の歌は、昨日から、これにすると決めていた。 心の瞳(You Tube)

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こんな所も。

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ここに、機体後部が滑り落ちてきた。 右上向こうに、ヘリポート。
川上さんが助かった場所は、写真の右部分か、もう少し上辺り。   関連ブログ。  川上さんインタビュー(You Tube) 

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上の写真の、右側斜面。

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【救助について】

遺体収容(WikiPedia)
墜落時の猛烈な衝撃と火災によって、犠牲者の遺体の大半は激しく損傷していた。盛夏であったこともあり、遺体の腐敗の進行も早かった。遺体は、機体から投げ出され樹木に突き刺さったもの、機体の残骸にはさまれたり切断されたりしたもの、一部が落下の衝撃で地中深くに埋もれたもの、圧力によって2名の体が一つにめり込むように合体したようなものなどが発見された。遺体の部位によっては、挫砕され完全に識別困難となった部位や、墜落の摩擦で完全に消失した部位もあった。当時はDNA型鑑定の技術も確立されていなかったため、身元の特定は困難を極めた。例として、機長の遺体は前歯5本のついた下顎のみであったことや、歌手の坂本九の遺体は胴体のみで、遺体がつけていた笠間稲荷神社のペンダントにより身元が判明したことなどが挙げられる。

遺体の搬出(WikiPedia)
墜落現場に臨時のヘリコプター発着場が自衛隊によって突貫作業で造られ、8月14日午前から遺体搬出作業が始まった、直線距離で墜落現場から約45キロ離れた群馬県藤岡市へ自衛隊・警察のヘリコプターで運ばれた。

地元消防団の動き(昨日、Kさんからの話を中心に)
Kさんたち地元消防団は、翌日の朝6時に集合し、現場に向かった。
林道を車で行けるところまで行って、そこからは、道のないところを山に向かった。

8班に分かれていた。 1班4名くらい。
猟師さんもいたため、山に入っても大丈夫だった。
また、Kさんは、この付近で山火事が以前あって、その時山に入っていた。土地勘はあった。

ヘリコプターが飛んでいたから、大体の方向は分かった。
8つの班は、山の中では別々に分かれて進んだ。

Kさん達の班は、途中で、沢の水を飲んだという。
上で何が起きているかは分かっていなかったが、水はまずかったという。

沢を上っていったら、見えてきたという。
自衛隊が到着するのが8時半で、それより早く着いた。(このことは、WikiPediaにも書いてある)
Kさんたちの班が着いて間もなく、他の班も合流した。

沢を上っていって最初に見えたのは、4名の人が助かった場所だ。
生きている人を探したらいた。

Kさんは、吉崎さん母子の娘さんを担当した。
担架がないので、飛行機のカーテンを使ったという。
棒は切ってきて。 木のツルで縛ったそうだ。

担架に娘さんを乗せて、ヘリポートまで、急斜面を上った。
後ろの人は、高く上げなければならないから大変だったそうだ。
蹴飛ばした訳でもないのに、千切れた足が転がって行ったという。

椅子にシートベルトをして座ったままの人もいたそうだ。
でも、その人の腰から下は無かったそうだ。
Kさん達は、上にあるWikiPediaの惨状を見た。

川上さんは、ヘリコプターで釣り上げられた。
斜面の一番下は、それは出来なかった。
ヘリコプターは、谷の中にまでは下がれなかった。
谷は狭いし、谷に沿っての上昇気流に押されて、危険だからだ。

北海道から戻った人が多かったため、お土産の鮭も散乱していたという。
また、不思議なほど、遺体からは血が出ていなかったそうだ。
(カマイタチに切られた感じだとも言った。  ※カマイタチ )

救助作業の初めの頃は、野次馬のような人達も、現場に入ったそうだ。
その人達は、何をやったか分からないという噂もあるそうだ。(例えば、お金に関して)
途中から、入山は規制された。

救助作業が終わって、村に戻ったら、慰労会のようなのが催された。
上野村は山の中だから、ご馳走は肉だ。 でも、誰もそれには箸を付けなかったという。
(このことは、別の人も言っていた)

Kさんは、見たことは話してくれたが、ずっと亡くなった人を思いやっての話し方だった。
そこから離れることは、一度もなかった。

もう少し救助が早くできたら、もっと助かっていたかも知れないと言った。
生きていた人が、現場で、他にも声が聞こえていたと言ったそうだ。

      ※   ※   ※   ※   ※

今日説明していただいたのは、管理人のKさん。
一回りした後に、お会いできた。
写真を撮り直したところもある。

線香・蝋燭・ライターは、昇魂の碑のそばに置いてある。
その補充も、Kさんがしていた。

Kさんには、現場に行って、多くのことを教えていただいた。
こんなことを話してくれた。
123便に乗る予定だったが、都合で乗らなかった人が、慰霊に来たそうだ。
キャンセル待ちで乗った人が、自分の代わりに死んだように思うと言って。

9年10月24日 (25)

Kさんは、最後に、この事故を風化させたくないと言った。
昔事故のあった雫石に行ってきたそうだ。 あったのは、慰霊碑だけだったと。
私も、雫石の事故は完全に風化したと思っている。
(雫石航空事故・・・1971年7月30日。全日空機と自衛隊機が衝突。161名全員死亡。)
どうして風化したのか。
Kさんは、雫石で関係する所に行ったが、話しは一切してくれなかったと言う。
こういうのを聞くと、風化させたのかと、思いたくなる。(本心は、思っている)


私の普段のブログは、目的があって書いているわけではない。
でも、今日は、それなしに書くのはまずいと思っていた。
これを書くことによって、上に書いた事故の風化を防ぐのに、少しでも役立てればいいと思っている。
亡くなった520名の方のためにも。


3時間ほど歩いて、2時半に駐車場に戻った。
その時、20人ほどの人達がやって来た。
日本航空の人達だった。(バスの運転手さんに聞いた)
みんな無言だった。 大きな花束を用意していた。

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520名の命が散ってしまった御巣鷹の尾根は、小さな尾根だった。
スゲノ沢の斜面が、何とか4人を助けたと思った。
24年前を忘れることのできない多くの人が、慰霊に来ていた。
私も、急だったが、行ってみてよかったなと思う。
520名のご冥福をお祈りして、記事を閉じます。


【道の駅】   南きよさと   山梨県です。 場所はここ
 
【明日の予定】
この近くに、山本勘助のお墓がある。 でも、観光客が迷惑をかけたことで、見られない。
どんなとこにあるかでも、見てこようかなと思う。由布姫と同じだけ好きなんですよ。  関連ブログ

《今日の歌》     歌でなく、当日のニュース速報。   日航ジャンボ機墜落事故

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akkamui21

Author:akkamui21
ユーロスターで放浪の一人旅に出た、オジさんのブログ。
昨年春オホーツクを出発し、日本を2度往復。この秋に南下を始めたら、3度目に入る。

akkamui(アッカムイ)は、エゾモモンガのこと。子供の守り神の意味です。
ブログには、写真をいっぱい載せています。
よろしく。

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