キャンピングカーで放浪の旅

 写真で探訪

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芭蕉は、ここ伊賀上野で生まれました。
この町で、俳諧の道をスタートしていました。
また、伊賀流の忍者博物館があり、楽しめました。


伊賀上野は、昨日いた関宿から、奈良に向かう途中にある。
大きな山ではないが、山を越してきた。 さらに山を越えると奈良県。
だから、ここは盆地。   場所はここ

伊賀忍者については、博物館の形で、資料の保存と、実演をしていた。
初めに実演を見た。

これは、忍者の戦い。
戦いの武器は、刀一つでなく、手裏剣や鎖鎌など、いっぱいある。
片方が、服部半蔵役だった。
忍者だから、このように身軽で、時々跳ぶ。

9年11月23日 (1)

この人が、真剣を持ち出してきた。
ゴザを巻いたようなのは、一晩濡らしたそうだ。

軽く振りおろしたように見えた。 それでも、一瞬で切れた。
この後、さらに振り上げて切るが、撮影は失敗。
※ 肝心な時に、連写の操作が分からなかった。(1秒に、6コマ撮れるのに)

下の写真は、良く撮れましたよ。  顔も真剣。 

9年11月23日 (2)

この人は、を投げた。 鎌は、ゆっくり回転しながら飛んだ。  左の方に、見える。
難しい技だと思う。

9年11月23日 (3)

このように刺さった。

9年11月23日 (4)

これは、鎖鎌。 ヌンチャクのように振り回した。 失敗したら、自分の首を切りそうだ。
この人は、本番の前、外で練習していた。
微妙な感覚のズレがあっても、きっと出来ない。

9年11月23日 (5)

時々、このようにふざける。

9年11月23日 (6)

どうして、この伊賀の地が、忍者の里のようになったのか。
それが分からないと駄目ですね。 こうでした。

まず、ここが都から離れ、盆地と言う閉鎖的な部分が良かったようです。
それと、この地に、都からの亡命者が多かったとあった。
その中には、服部氏がいた。(服部半蔵の先祖か) 奇術や軽業が得意だった。
他に、大和朝廷で呪術をつかさどっていた、物部氏も来たそうだ。

このように条件が整って、伊賀流の忍術が、甲賀と共に、他より秀でていったようだ。

資料館を見た。 これは、爆竹。 竹を使った、本当の爆竹だ。
種子島の鉄砲が来る前から、火薬は作っていたとあった。

9年11月23日 (7)

これで水の上を歩く。 大丈夫かな。

9年11月23日 (13)

忍術は、戦うだけでなく、生きるための知恵を、様々身に付けていた。

こんなの知らなかった。 何時付く水滴だろう。 
※調べたら、朝露でした。
※他に、蜘蛛が巣をせっせと作っていたら、雨は降らないそうです。 雨で巣が痛むから。

9年11月23日 (9)

他に、知恵をいくつか。
① 縫い針で、方位地震が出来るのを知っていた。 何かでこすって。
② 鳥の羽を地面に刺す。 数時間後水が上がってくれば、近くに水がある。
③ 臭いで見つかったら困るので、いつも清潔にして、ニンニクのような物は食べなかった。
④ 土の中に、破傷風菌があることは知っていた。 武器の先に、土などを塗りつけることがあった。
   ※ 手裏剣の先には、トリカブトを塗っていた。

この地図は、本能寺の変の直後、家康が岡崎に逃げ帰ったルート。
家康は、三方ヶ原で負けた時も、大変だった。  関連ブログ
この伊賀越えも、大きな危機だった。

この時、伊賀と甲賀の忍者の活躍があり、家康は無事に岡崎に帰る。
家康は、このを忘れることはなく、後に200名を召しかかえることになる。 頭は、服部半蔵。

家康が天下を取る要因の中に、恩を忘れないという部分があったのかな。
そのことが、人心掌握に大きくプラスした。 そんな気がする。

9年11月23日 (11)

下の鎧は、伊賀越えの時の忍者の家に、代々伝わるものだそう。

9年11月23日 (10)

忍者屋敷の説明はあったが、人がいっぱいで撮影は無理だった。
ここの建物は、他から移築していた。

9年11月23日 (8) 

灯りを消したら、見えなくなる。

9年11月23日 (12)

雪虫の様な虫が、町中を飛んでいた。
誰かが冬の蛍と言ったが、ネットを調べても出てこない。

9年11月23日 (14)

芭蕉翁記念館に行った。 本物はあったが、写真は撮れないし、見るだけはつまらない。
あっちこっちの説明を読んだ。 下のは、絵葉書を撮影。

9年11月23日 (20)

旅人と 我名よばれむ 初しぐれ  とある。

9年11月23日 (21)

芭蕉は、この家の場所で、1644年に生まれる。 手前の小さな建物は、昔のまま。
芭蕉が江戸に出るのは、29歳の時。 俳諧師を目指す。

9年11月23日 (15)

愛染院という松尾家の菩提寺に、故郷塚と言われるものがあった。
芭蕉の、遺髪が埋められている。

9年11月23日 (16) 

蓑虫庵に向かう途中に、こんな喫茶店が。 忍者だ。

9年11月23日 (17)

この建物が出来た時、芭蕉は下の歌を贈った。
  みの虫の 音をききにこよ 草の庵 
それで、ここは蓑虫庵。 ※芭蕉庵ともなっていたが、芭蕉がいたわけではなかった。

9年11月23日 (18)

後ろの方から撮影。

9年11月23日 (19)

芭蕉の資料はたくさんいただいた。
全部読んだが、この町での芭蕉の動きが分からない。
ここは、生誕の地と言うだけで、この地での芭蕉の活躍は無いように感じた。

ただ、ネットで調べていたら面白いことが分かった。 次のこと。

芭蕉を俳諧の道に誘ったのは、藤堂良忠という人。 俳号は蝉吟(せんぎん)。
その人に継子がいたが、若くして亡くなった。(継子・・後を継ぐ養子)
芭蕉は、その親に対しても、亡くなった子に対しても、特別な思いを持っていた。

山寺で、芭蕉は、「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」をつくる。
ここでの蝉は、偶然ではなく、蝉吟の蝉だった。
蝉の命のはかなさと、亡くなった子の命の短さとを重ねた。

上のことについては、一部しか知らなかった。
息子のことや、蝉吟という人が上野の人だったことは、初めて知った。
もしかしたら、芭蕉は山寺に行く前から、上の俳句は作っていたかも知れない。

芭蕉については、奥の細道が面白いでしょうか。
   関連ブログを載せますね。  山寺 尾花沢 山刀伐峠 中尊寺 象潟 最上川


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Author:akkamui21
ユーロスターで放浪の一人旅に出た、オジさんのブログ。
昨年春オホーツクを出発し、日本を2度往復。この秋に南下を始めたら、3度目に入る。

akkamui(アッカムイ)は、エゾモモンガのこと。子供の守り神の意味です。
ブログには、写真をいっぱい載せています。
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